Hot x 2


Another Life(未完) >> back
 暖かな春の風に呼ばれた気がして、僕は足を止めた。振り返った先を、駅へ向かう人たちが忙しそうに、通り過ぎてゆく。俯き気味の黒い頭たち。僕は首を伸ばして、その向こう側にいるかもしれない、彼女を探した。交差点に流れる音楽が止み、信号が赤へと変わる。そして僕は、退いて薄れてゆく人波の向こうに、彼女の姿を見つけた。彼女も僕を認めて、白い手を軽くあげ、微笑った。僕の頬も自然と緩み、
「ひさしぶりだね」
 と、小さく手をあげて言った。
「ひさしぶり」
 と、彼女も言った。そこに"元彼女"と"元彼氏"という関係に特有の"ぎこちなさ"というのを、僕は全く感じなかった。彼女も、感じていないだろうと思う。
「今暇ですかあ?」
 両手でメガホンを作って叫んだ彼女の声がひどく懐かしくて、僕は何故だか声を出して、笑ってしまった。何笑ってるんですか、と言う彼女の声もあきらかに笑いを堪えているように震えていて、空を舞っている桜の花びらみたいに、愉快そうだった。
 また、交差点から気だるい音楽が聞こえてきて、黒い波の音が近づいてくる。彼女は慌てて、僕の隣まで跳ねてきた。
「話できるとこにでもいこうか」
 と僕が聞く。彼女はうなずき、僕たちは線路に沿って続く桜並木を、並んで歩き出した。新宿行き急行が、僕たちの横を通り過ぎて、彼女の長い髪と桜の枝を揺らして走り去ってゆく。花びらが、前に伸びる、繋がっていない僕らの影にひらひらと舞い落ちた。

 ……僕たちは大学一年からの三年間を、恋人として過ごした。僕たちはひどく"お似合い"だったし、皆からもそう言われていたけれど、三年前、別れた。僕たちは"似合いすぎていた"もしくは恋人としての"お似合い"ではなかった。ある程度自分本位になって相手を求めないと、恋人としての愛なんてものは、表現できなかったんだと思う。互いに好き合ったまま、何時の間にかできていた隙間に枝から零されてしまうこの花びらみたいに、僕たちは互いに尊重しあいすぎることで、隙間を作ってしまったんだ。
 僕はここで、何故僕たちの間に隙間ができてしまったのか気付くきっかけになった、二人別々の旅行の話しを、しようかと思う。


     T.

 時計の音がまるで静寂の鼓動みたいに、六畳一間のアパードで脈打っている。僕はベッドの片隅に座って、もう冷めたコーヒーを眺めながら、時折気づかれないように、もう片隅に腰掛けている裕美の横顔を盗み見ていた。彼女は腿の間に挟むように置いたスーツケースの上に見えない鍵盤を仮想して、しきりに音のない音楽を奏でている。僕はコーヒーカップに目を戻した。それが置かれている白い丸テーブルの上に、カーテンの縫い目を通って薄くなった冷たい日の光が、揺れもせずに留まっている。
 どうして、僕らは今みたいに、離れて座るようになってしまったのだろう。コーヒーが湯気を立てていた時からずっと、考えていた。もう一度彼女を見てみる。丹念に無音を紡ぐ指とは裏腹に、彼女の焦点は、鍵盤に定まっていない。ああやって指を走らせるのは、彼女が物思いに耽っている時の癖だということを、僕はよく知っている。たぶん、同じようなことを、彼女も考えているんだろうと思う。僕たちは、よく似ているから……
 時計の針は午前六時十五分を刺していた。そろそろ、彼女の独奏は終始記号を打つ。裕美の乗る飛行機は、僕のより三十分早い。僕たちは出会ってから初めて、別々の旅行に出る。一度離れることで僕ら二人、一週間後のここで、隣り合って座れるようになる事を、信じて。
「浩二」
 彼女の声のほうに、目を向ける。
「少し早いけど、もう出るね」
 気をつけてね、と僕は返した。彼女は鍵盤だったスーツケースを持って、玄関の向こう側へ、行ってしまう。扉が閉まると同時に、外から僕のコーヒーみたいに冷たい空気が入ってきて、彼女がスーツケースのタイヤを転がす音が遠ざかるのを聞きながら、僕は身震いした。時計の音が、いやに響き出す。僕はコーヒーカップに、手を掛けた。
 冷たいコーヒーは、温かいのより、苦い気がする。僕は立ち上がって、玄関手前の台所で、安い植物性の粉ミルクを、カップに落とした。黒いままでは、とても飲めないと思ったからだ。けれど、冷たいコーヒーに粉は溶けなくて、白い球体がぷっくりと顔を出し、やがて崩れて醜い斑を、水面に作った。色も質も似ていないのに、僕は何故だか、ザーメンみたいだな、と思った。
「ザーメンみたいだ」
 声に出してみた。時計の音が響いている。僕はカップに口をつけた。
 最初だけ甘くて、その後とても、苦くなった。


(続きます)







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